カテゴリー「演劇一般」の記事

2008年7月29日 (火)

心を洗い流す星の王子さま

728日 「夜と星と風の物語」(シアター1010
松井誠の「王女メディア」を見たときに、劇場でつい買ってしまったのは、大好きな「星の王子さま」だから。と思っていたら、1週間ほど前の新聞に「星の王子さま」をモチーフにした別役実の新作なんだと知った。へええ、別役実なんて、こんなことでもなければ絶対出会えなかったなと、ちょっと面白く思った。
さて、その別役版・星の王子様は音楽劇であり、原作のさまざまなエピソードをアレンジして、独自のストーリーを持ちながら、原作の味もこわしていない。飛行機が墜落したのは王子がお茶会をしていたテント。原作でかの有名な「ヒツジの絵を描いて」と飛行士に頼む王子は、ここではお茶を飲めなくなったから「飛行機をどかして」と頼む。原作でもっとも心を打つキツネと王子の会話は、ここではキツネは出てこないし、王子が「遠くばかりを見ていると近くのものが見えなくなるって言いますからね」とさらっと言うだけである。

飛行士と恋人、墜落した飛行士を探して砂漠を歩き回る両親はそれぞれお互いに相手と出会っても、それが誰だか認識できない。話しているうちに、互いに恋人らしい、息子らしい、親らしいという気持ちにはなってくるのだが、決め手がない(だから、彼らは飛行士と彼を巡る人たちであると同時に、男1、女1、男2、女2でもある)。その決め手となるかもしれないのは、ある男が遠く離れたカサブランカに住む恋人に宛てた手紙である。飛行士はその手紙を届けようとして墜落したのだ。だがその手紙を書いた男はじつは飛行士かもしれなくて…、と話は少々ややこしくなる(が、わかりやすいややこしさ)。
いっぽうの王子はばらの花との行き違いがあるものの、ばらが自分の愛する相手で、ばらも王子を愛しており、2人は結婚することになる(相思相愛の王子とばらが結ばれるのはいいのだけど、私の中の王子は小さな胸をばらのために痛める少年で、結婚ということに現実味が湧かない)。
すべての人が愛を取り戻すのは、「思い出」によってである。みんなで「思い出そう、思い出そう」と言って、過去を思い出す。
私ははじめ後ろを振り返ることへの反発を覚えたが、ふと気付いた。自分が道に迷ったとき、先ばかりを見て苛立ったとき、両親がしてくれたこと、友達が言ってくれたこと、子供にしてしまったこと、そういうことを思い出して自分の道が見えてくることに。思い出すのは過去にしがみつくこととは違うのだということに。
主演の毬谷友子は少年役にありがちな演技が時として見られたが、王子にぴったりな純粋さと毀れやすさを感じさせ、とても愛おしい思いに駆られた。飛行士の恋人役の秋山エリサが伸び伸びとした演技でよい。そのほかの出演者もみな適材適所、若い役者さんは全身で表現して、ベテラン俳優は全身から滲み出る感情で表現して、見ている私は安心してこのファンタジーの世界に入り込めた。
この芝居もまた、原作と同様に、心をきれいに洗い流す涙をくれるのだと思った。
<上演時間>155分、休憩15分、第255
おまけ1最後に、この飛行士がサンテクジュペリであり、彼が墜落したのは砂漠でなく海であったことが明らかにされるが、私は、この部分がちょっと余計な印象を受けた。そうしなくても十分サンテックスへのオマージュにはなっていると思うのだが。

おまけ2音楽劇だから歌も音楽もたくさん採り入れられている。嬉しいことに、音楽は生演奏。これがいいのよ。チェロ、ギター、クラリネット、ピアノ、そしてヒューマンビートボックスのMaLさんが見事なリズムを刻む。朝倉摂の砂を軸にした装置、古い駅なども雰囲気を盛り上げる。
おまけ3笑いどころがたくさんあって、わたしもくすくす笑ったのだが、何人か大受けしてひどく笑っている人がいた。そんなに声を上げて笑うほどだったかなあ。でも、そうやって楽しく笑うのは悪いことではない。
おまけ42度目のカーテンコールで、駱駝(砂漠のキャラバンの駱駝)に入っていた2人の役者さん(政宗、池上高史)が顔を見せてくれたのも嬉しい。大事な手紙を食べちゃったユーモラスな駱駝さんに大きな拍手を送った。

おまけ5この劇場で右近さんと笑也さんが「極付 森の石松」をやると知ったのは前日。もうとっくに一般販売も行われており残席わずかで迷ったが、劇場で前売りを買っちゃったcoldsweats01

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2008年7月24日 (木)

パワフルな舞台:道元の冒険

723日 「道元の冒険」(シアターコクーン)

080724lotus2_2 仏教的雰囲気はけっこう好き(寺院、仏像の拝観、だ~い好き。お香の匂い、だ~い好き)。しかし仏教の精神性はよくわからない。そもそも宗教に関して私は、八百万神に敬意を表する程度の信仰心なのである。
だから、「道元の冒険」は宗教的観点から離れ、かなりミーハー的視点で見た。
すっごく高いプログラム(1800円)を開くと、役名は「主として○○に扮する男」あるいは「主として○○に扮する女」と書かれてあり、では、彼らは道元でもなければ、その弟子の僧たちでもないのかという、一種居心地の悪さというか、好奇心というか、そんな気持ちが湧く。
開演と同時に場内は真っ暗になり、突然バスガイドが登場する。ガイドの案内で舞台中央を見ると、黒い衣に覆われた集団が円陣を組み、「うぉーんわんわん」としか聞こえないような声を発している(祇園精舎がどうたら、と言っていたのかも)。彼らが、道元が開いた興聖宝林寺の僧たちで、やがて彼らは経本をアコーディオンみたいにぱらぱらと右へ左へ見事に操りながら読経する(これ、振り付けかと思ったら、実際に行われている「転読」というものだそうだ)。
そして道元が登場し、開山7周年を記念して弟子たちが道元の半生記を演じることになる。しかし比叡山の僧兵や朝廷などの邪魔が入り…。
ところで、道元は最近しきりに夢の世界に入り込む。夢の世界で道元は婦女暴行罪でつかまった男(男のほうも頻繁に見る夢で道元になっている)であり、尋問を受け、ロボトミー手術や電気ショック療法を受ける。ロボトミーって残酷だからと今は行われていないはずだが、芝居とはいえ、ドリルで頭蓋骨に孔をあけるシーンはイヤな感じがした。
「主として道元に扮する男」・阿部寛は、道元半生記が上演されている間、舞台下手で座禅を組んでじっとそれを見ている。これがかなり長時間で、きつそう。でも、私は時々阿部ちゃんの表情を見ていたが、場面場面でにんまりしたり、厳しい表情になったり、法印を組みなおしたり、一緒に歌を歌ったり、ちゃんと演技しているのが興味深かった(この表情は演技だから毎度同じなんだろうか、それともその時の阿部ちゃんの気分で変わるんだろうか、なんてことを考えていた)。
出演者は13人。そのうちの10人が複数の役を演じ分ける。145役は当たり前、6役、7役なんていう役者さんも。阿部ちゃんは、「主として道元に扮する男」と、婦女暴行容疑の男の2役。「トリック」などで見せる阿部ちゃんのエキセントリックな部分が、この婦女暴行男に現れていて、「うん、この役は阿部ちゃんにぴったりだ」と頷いたのでした。それにしても、これまでにも1人で何役かを演じ分ける芝居はいくつか見ているが、こんなハードなのは初めてだ(私だったら、1日2回公演なんて挫ける。役者さんはつくづくタフだ)。歌舞伎の早替りと同様、袖に引っ込んで別の人物になって出てくることもあれば、舞台でそのまま衣裳を変えて違う人物になっちゃうなんていうこともある。おまけに、全員歌が歌えなくてはいけない。
高橋洋(歌はイマイチかな~)lovely×北村有起哉heart04の素敵な中国語講座。これは青年道元が中国に留学したとき(あるいは留学前だったかも)のエピソードで、中国と日本では漢字の意味が違うとして、道元がクイズ風に漢字の勉強をする。アン真理子の懐かしい歌が歌われたが、わかった人がどれだけいたか(「明日という字は明るい日と書くのね~notes」「若いという字は苦しい字に似てるわ~notes」。若い人には何のことかわからないでしょ)。それから、先生役の高橋洋クンがたとえば「口から出るのはnote」とか歌いながら襖だか壁だかに筆で大きく偏を書いていくと、道元役の有起哉さんがつくりの<出>という漢字を書いて「はなし(咄)~note」などと歌う。こうして書かれた漢字が10字くらいあっただろうか。漢字と成り立ちとしては当たり前のことなんだけど、けっこう感心もしたし、ダイナミックで楽しい場面だった。
4
年の留学を終え、壮年となった道元は「正法眼蔵」を書く。このときの道元(高橋洋)の熱弁は、若々しい情熱に溢れ、実のところ、何を言っているかあまりよくわからなかったのだけど、それでもこちらまで力が入った。
あるとき、その道元のもとに、親鸞と日蓮が訪ねてくる。
3人は同じ比叡山大学の先輩後輩なのに、宗教的観念の違いから、しょっちゅうぶつかり合う。そのたび1人が仲裁役になり、「まあまあまあ。皆同じ大学を出ているのではないか」ということで仲直りする。そこで歌われるのが比叡山大学の応援歌。まずは「比叡山大学応援歌1ば~ん」として、某大学校歌の替え歌が歌われる。予想されたとはいえ、思わずクスリと笑ってしまった。喧嘩と仲直り、応援歌の繰り返しが3回あって、我が母校の替え歌も高々と歌われ、思わず大きな拍手してしまった。
出演はほかに木場勝己(セリフも安定しているし、ベテラン、大奮闘。木場さんって、どういうわけか、私の中で吉田鋼太郎さんとかぶるのよね)、大石継太(早替りでは一番めまぐるしく、笑わせられた。老典座役は本当に老人かと思ったほど見事)、神保共子(小さな体に溢れるバイタリティー。演技もさすがにしっかりしているから安心していられる)、栗山千明(TVで見る印象とずいぶん違った。最近蜷川が使っていた若い女の子たちの中で一番よかったかも)、横山めぐみ(私、舞台の横山めぐみって好き。色気むんむんの役でも清潔さと必死さが感じられる)、池谷のぶえ(ボリュームたっぷりの体から出る声が明快で美しい)、片岡サチ(仁左様の娘さんの汐風幸がこの名で出ているのであった。強烈な個性はないものの、元宝塚だけあって、歌や動きがよい)。あと、最後にちょっとしか出ない看護夫役の手塚秀彰、バスガイド役の茂手木桜子、御仏役の金子文(この人、ヌードの姿態を晒すのだが、じっと動かず、顔には微笑みを湛えて、スゴい)。
宗教的な言葉や会話、むずかしい用語なども時にはあるが、道元の生き方や考え方を現代の狂気と絡み合わせてほとんど退屈させることなく見せ(原作は超膨大、そのまま演じたら67時間くらいもかかろうかというのを、初演時大幅にカットし、今回は井上本人が改稿したそうだ。芝居のテンポはよい。1部も2部もそれぞれ予定の上演時間より5分くらいずつ短縮されていた。しかし早替りと栗山千明の少年道元が頭を剃る場面は、少し悪乗りしすぎだと私には思える)、ラストは井上ひさし得意の落とし方で、「○○に扮する」男だの女だのがう~む、そうだったのかという次第。全部きっちり消化できたわけではないが、とても面白かったし、芝居を①1度見ればいいやというもの、②機会があればもう1度見たいもの、③何度でも見たいものに分ければ、「道元の冒険」は②である。
<上演時間>195分、休憩15分、第290分。
おまけ1ラストで舞台上からたくさんのTV画面が降りてくる。相撲、ニュース、ドラマ…。それは全部、今日この時間にオンエアされているものらしい。決め手は、「バットマン逮捕」のニュース。
おまけ2チラシやポスターを見ると、みんなきれ~いなつるつるのスキンヘッドだが、実際に使われている鬘は黒髪まじりで、え~~っ。
おまけ3大竹しのぶが見に来ていた。私は開演前にたまたま受付そばにいて、目の前に大竹さんの姿があったのでビックリしたのだが、座席も私たちの数列前で、へええと思った(有名人ってどの辺の席なのかなあといつも思うから)。シンプルな黒の胸が大きくあいた袖なしワンピースで、ノーメイク(に見えた)。あまり芸能人オーラは発しておらず、あれほんとに大竹しのぶだったかしら、と時々あやしくなるくらい。あ、本当に大竹しのぶさんでしたよ。

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2008年7月17日 (木)

「シンベリン」って? 2:鑑賞篇

716日 「シンベリン」(池袋あうるすぽっと)

「子供のためのシェークスピアシリーズ」という存在も、「シンベリン」と同じく、このたび初めて知った。1995年から毎年夏に上演されているというから、これは言い訳できないかな。「子供のため」と言いながら、夏休み前の平日昼間の観客は大人ばかり。よくできた舞台、丁寧な演技は、大人の鑑賞にも十分堪えうるというか、大人が見てもとっても楽しい。

●子供のためのシェークスピアシリーズの特徴
少々ややこしい物語を8人で演じる。そのため、また子供にわかりやすくするため、脚本・演出の山崎清介は原作をうまく整理し、狂言回し的な存在としてジュピター神まで登場させている(これ、原作にもいるのかと思ったが、どうやら山崎さんの創作らしい)。この辺、むずかしくて退屈しそうだなというあたりになると、ギャグを入れたり、笑わせたりして、注意を逸らさないというのも、巧みである。
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黒ずくめの集団>
ストーリーはともかく、この芝居で驚いたのは、その演じられ方だ。私の表現力では到底説明しきれないのだが、8人の役者さんは、はじめ黒のコートで身を覆い、黒の帽子を目深にかぶっている。やがてコートを脱ぎ捨てると、王や王妃、イモージェンなどの人物に変身するのだ。そして再びマントに身をくるむと、それまで王や王妃、イモージェンなどだった役者さんは、名も無き兵士や人民に変わる。これ、このシリーズの特徴らしい。また、12役、3役という人もいて、この方法なら、たった8人で大勢を演じられるわけだが、クロートン役とシンベリンの行方不明だった王子の1人が同じ役者さん(戸谷昌弘)で、クロートンがあまりに個性的だったため、もう一役のときにクスクス笑いが客席から起きてしまった。
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手拍子とシュッシュッ>
また、幕の始めと終わり、場面転換のときに手拍子が使われる。役者さんたちがリズムに乗った手拍子を始めたり、「シュッシュッ」というような不思議な声を出したら、それは場面が変わったということ。今の今まで王様だったり、美しい王女だったりした人がいきなり手拍子を始めると、なんだかおかしくて、はじめはとまどったが、慣れてくると手拍子の意味もわかり、どうということはなくなる。

<机と椅子>

学校の教室にあるような机と椅子がいくつか。そしてその後ろには頂上に城を頂く岩のようなパネルが一つ。机は玉座にもなり、椅子は階段にもなり、こんなものだけでうまく表現するものだなあと感心した。
●登場人物たち
適材適所、そしてどの役者さんも演技はしっかりしており(私が言うなんておこがましいが)、セリフもわかりやすかった。一番お得な役は戸谷昌弘さんのクロートンかな。童顔で、イモージェンに片思いして、けっこうしつこくて、ちょっとおバカで、最後は哀れ首を切られて死んでしまう。笑いを一手に引き受ける役(共演者がよく笑わないものだ)。

ピザーニオの土屋良太さんは、インパクトの強いお顔で、絶対どこかで見たことある、何の芝居だっけと思い出せないでいたが、あとで調べたら「殿のちょんまげを切る女」と「わらしべ夫婦双六旅」に出ていたそうだ。でも、その両方とも、土屋さんの記憶はあまりないのよね。それなのにどこかで見た顔だと思ったのは、もしかしたら、いい役者さんとして脳の奥のほうにインプットされていたのかもしれない。
ヤーキモーの山口雅義さんは、いかにも小ずるい表情が主人公を応援する身としては憎らしい。この役も敵役であり、お得だなと思う。
その点、むしろむずかしいのは美男美女のイモージェン、ポステュマスかもしれない。でも、石村みかさんは美しさにプラスただ受身だけの女性でないイモージェンの強さ、爽やかさがぴったりだし、若松力さんは屈託のない若者が復讐の鬼となり表情もすっかり変わる凄まじさに迫力があった。
シンベリンの佐藤誓さんは学者風な容貌で、知的な王なのかと思うと、王妃のこともポステュマスのことも、かつて謀反の疑いで追放した家臣(今は狩人)のことも全然わかっていない、なんだ、この王様ダメねえというそのギャップがなんだかおかしかった。王妃の伊沢磨紀さんはダイナミックな演技で、シンベリンを圧倒する。もう一役のシンベリンの実の息子も、女性でありながら、また年齢もうんと若い役でありながら、まったく違和感がない。
さて、最後の1人は山崎清介さん。ローマの将軍、シンベリンの侍医(例の、飲むと死んだように見える薬を調合する)、そして人形遣い(ジュピターと大先生と言われる人形)と大忙し。人形の声もやっているのだが、それが山崎さんの腰くらいまでしかない人形の口から聞こえてくるように思えて不思議だった。マイクが人形の口に仕込んであったのかなあ。

華のん企画では、このシリーズのほかにチェーホフシリーズも手がけているとのことで、この前挫折したチェーホフに親しむにはいいかもしれない、とかなり興味津々である。でも、これ以上、増やしたら、どうなるっ~。

08071603owlspot_3あうるすぽっと:豊島区立中央図書館の入っているビルの2階にある。「2階ですから階段でも行かれますよ~」というエレベータ ー前の案内の声に誘われて、階段を選んだはいいが、いったいどこまで昇ればいいのか。1つが10段ほどの階段を上っては曲がりを延々繰り返し、やっとたどり着いた。全部で4050段ほどあったと思う。後で見たら、1階ロビーの天井がやけに高く、そのせいかと納得。
08071602owlspot

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「シンベリン」って? 1:作品篇

716日 「シンベリン」(池袋あうるすぽっと)

08071601owlspot_2シンベリンこの聞き慣れぬ言葉を目にしたのは、地下鉄フリーペーパー「メトロ」の3月号だったか、4月号だったか、小さな囲み記事でだった。中を読むと、シェークスピアの芝居の題名だという。もちろん、シェークスピアの作品はごく一部しか知らない私だが、それにしても「シンベリン」なんて奇妙な響きの作品は聞いたことない。好奇心と、「子供のためのシェイクスピアシリーズ」というこの企画が大変評判いいというのに惹かれ、主宰の<華のん企画>に電話してチケットを確保したのでした。以下、ネタバレします。これからご覧になる方はお読みにならないほうがいいかもしれません。
●物語

さて、シンベリンというのはブリテンの王様の名前、時はジュリアス・シーザーの頃。シンベリンは亡き妻との間に2人の息子と1人の娘を儲けたが、息子は幼い頃に2人とも行方不明になっている。シンベリンは娘・イモージェンを、今の王妃の連れ子・クロートンと結婚させようと思っていたのに、イモージェンは貧乏紳士・ポステュマスと勝手に結婚してしまった。シンベリンは大いに怒り、ポステュマスを追放する。ポステュマスはローマに逃れ、自分の妻がどんなに貞淑で素晴らしいかを吹聴し、ある男とその貞操について賭けをした。男・ヤーキモーはブリテンに行きイモージェンを誘惑するが(それだけのためにブリテンに行くなんてcoldsweats02)、彼女は断固としてそれにのらない。しかし狡猾なヤーキモーは汚い手を使って、誘惑に成功したと見せかけ、ポステュマスの嫉妬と怒りを掻き立てる。
その後、ブリテンとローマの間に戦争が起きたり、イモージェンが宮殿を抜け出し、男装して狩人一家(実はシンベリンのかつての臣下と、シンベリンの行方不明の2人の王子)に助けられたり、ローマ軍の将軍の庇護を受けたり、紆余曲折色々ありまして、最後は2人の王子もシンベリンと対面を果たし、すべて丸く収まってめでたしめでたし、となる。

●あれもこれも

という物語で、すぐ思い浮かべるのは「オセロー」だ。イアゴーにだまされて嫉妬の鬼になったオセローは妻を殺し、妻は貞淑そのものだったと知って自分の命を絶つ。「シンベリン」でもポステュマスはヤーキモーにだまされて妻を信じることができなくなり、従者ピザーニオにイモージェンを殺すよう命令する。「オセロー」は悲劇だが、「シンベリン」では誤解が解け、ハッピーエンドになる。しかも、イアゴーには残酷な刑が待っていたが、自ら罪を告白したヤーモキーはポステュマスに許される。「俺に罰する力があるならそれは君を救うことだ。君への恨みがあるならそれは君を許すことだ」なんて、カッコいいではないか。妻に裏切られたと信じ込んで半狂乱になっていたポステュマスがこんなに成長するとは、「オセロー」や「ヴェニスの商人」における罰とはエライ違いだ。シェークスピアの心境の変化だろうか(作品の完成順は知らないが)。
そして次に思い出すのは「ロミオとジュリエット」。親に許されぬ恋と、それを飲めば死んだように見えるという薬。「シンベリン」でもそういう薬が出てくるのだ。あと、王に人を見る目がないという点では「リヤ王」だし、男装の女性では「ヴェニスの商人」「十二夜」など。私が知っている範囲でも、シェークスピアの色々な作品のエキスがふんだんに盛り込まれているという印象を受けた。

●その他
①シンベリンというブリテン王は実在したらしい。芝居中、ローマと戦争になったのは、ローマが要求する年貢をシンベリンが断ったことが原因だが、実際のシンベリンはローマに忠実だったとか。この物語では、年貢を拒否したのはお妃に唆されてのように感じられたが、ブリテンがローマを下し、その将軍を捕虜にまでしたのに、結局命も取らず、年貢も今まで通り納めましょうということになったのは、な~んか変。
②「シンベリン」という作品は日本ではこれまで5回しか上演されていないのだそうだ。つまり今回が6回目。聞いたことがないのも道理だ、と言い訳。

③「狩人一家、実は…」「ローマ将軍の従者、実は…」「シンベリンの命を救ったぼろ服の男、実は…」などというように、シェイクスピアでは「実は」が多いが、これは歌舞伎に通じるなあといつも面白く思う。

鑑賞篇に続く。

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2008年7月 9日 (水)

不安を掻き立てられた「羊と兵隊」

78日 「羊と兵隊」(本多劇場)

舞台には錆びかけた鉄骨、ペンキの剥げかけた柱など、ひどく古びて、殺伐としていながら、どこか懐かしさを覚えさせるセットが組まれている。いつの時代なのか、どこの国なのか(登場人物の名前からすると日本とも思える)、ある一家の家の中である。以下、ネタバレします。
前半、舞台の下手半分はカーテンに隠された食堂になっていて、芝居が始まると一家はそこで食事をしている。だから、少なくともかなりの客には人物の姿が見えず(うっすら影が見える程度)、声だけしか聞こえない。やがて、人物が1人ずつ姿を現す。若い政治家アマノ、その姿を見て、私はなんとも不安な気持ちになった。というのは着ているスーツがえらく汚れているのだ。雨に濡れたような、ペンキが飛んだような…。しばらく不安を抱えていたが、登場人物の衣裳がみんな多かれ少なかれそんなふうに汚れていることに気付き、今度はそこに何か意味を見出そうとして、また不安になった。
「羊と兵隊」は、戦争のドラマである。でも戦争を直接的に描いているわけではない。一家の会話から、戦時下にあるというシチュエーションが徐々にわかる。しかし戦時中というのに彼らは優雅な食事を続け、その会話はいやにテンションが高い。かなり裕福な家であるらしい。家族は父親トリイ(岩松了)、母親ウネ(佐藤直子)、長男ルイ(中村獅童)、長女ナナ(辺見えみり)、次女キキ(田島ゆみか)。一家とともに暮らす家政婦カナエ(田畑智子)と「先生」と呼ばれているキキの家庭教師(高橋理恵子)、さらにナナと結婚することになる政治家アマノ(近藤公園)、その秘書(阿部ユキ)、自治区の男(長岡佑)がからむ。そしてもう1人、ルイと呼ばれる男(中村獅童)がいる。出征させられるルイの身替りとしてこの家に連れてこられた男だ。

正直言って、ずっと戸惑いながら見ていた。喜劇なのはわかるんだけど、なんかじっと息を詰めて見てしまう(息を詰めるあまり、一瞬意識を失うこと数回、わからない部分が余計わからなくなった)。ルイと呼ばれる男は、ルイではないんだけど、でもじゃあ誰なのと思ってしまう。彼が何のためにこの一家にいるのかはわかっているのだけど、彼の本質は誰?何?って考えてしまう。この男がアマノを含めた一家を掻き回している。いや、本人にその気があるかどうか知らないが、彼が何のために存在しているかという事情ではなく彼の存在そのものによって、一家には不安と緊張が漲っているような気がする。トリイとその妻はそれを隠そうとしてわざとらしく振舞っているような気がする。この家の土台は空中に浮いているみたいな気がする(まったく関係ないが、パゾリーニの「テオレマ」がふと思い出された)。ルイと呼ばれる男もまた、不安に怯え、悲しみを抱えていたのではないか。獅童の演技からそんなことを感じたが、そう考えるのは短絡的に過ぎるだろうか。
私が一番興味深かったのはカナエである。思い切り目張りを黒く入れて黒のメイドファッションで一クセも二クセもありそうな田畑智子が、ひどく気に入った(田畑智子は、語弊を恐れずに言えば、とっても可愛かった。後半見せる「先生」との踊りはそのヘタクソさが怖くて、でも可愛い)。彼女こそトリイ一家をあっちへ引っ張りこっちへ連れて行く中心人物ではないか。とは言いながら、私には彼女の考えていることが一部しかわからず(その一部もわかった気になっているだけかも)、彼女の存在にも不安を覚えた。しかし最後にある悲劇が起こり、それまで私がカナエに抱いていたイメージが覆された。このラストには思わず鳥肌が立つくらい、言い知れぬ恐怖心が湧いた(カナエが殺人鬼だとか、そういうことでは全然ありませんよ)。
私の見方はとても浅いかもしれない。恐らくもう一度見たら、わからなかった部分が解けてきそうな気もする一方で、ますますわからない泥沼にはまりそうな気もする。それは私が極限状態にいないからなのかも。
<上演時間>175分、休憩15分、第270
おまけ:プログラムを見ていて嬉しいオドロキが。田畑智子について、映画監督の内田けんじが語っている言葉の中に、小野伸二の名前が出てくるのだ。曰く、「中村俊輔や小野伸二のように、そのボールタッチに独特の〔柔らかさ〕を持った選手はきわめて少ない」。どんな状況にあっても、どんなボールでも平然と柔らかいパスを出す。それはとても簡単そうで余裕があるように見える。田畑智子も余裕を持って〔柔らかく〕登場人物になる、って。へへ。
080709hituji1_3 080709hituji2
トゥーランドット」繋がりと、「おシャシャのシャン」のご縁かしら。

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2008年7月 2日 (水)

初チェーホフは残念な惨敗

71日 「かもめ」(赤坂ACTシアター)
チェーホフなんてまったく関心がなかったのだけど(退屈そうで)、井上ひさしの「ろまんす」を見たせいで迷いが生じ、結局チケット発売日からだいぶたってサイトを覗いてみたら、そこそこの席があいていたのでついつい購入してしまった。
結果として、やっぱりチェーホフは合わないかも。決してつまらなかったわけではない。ちゃんと見ていれば、けっこう面白いと感じる部分もあったし、笑える場面も間々あった。チェーホフは喜劇だと井上ひさしが言う(チェーホフ自身も言っている)のもわかる、気がしないでもない。でも眠くなった。そして第1部の後半はかなり寝た。第2部は気合入れたのに、やっぱり途中で眠くなった。それでも頑張って1部ほどは寝ないようにした。
ストーリーは、「父と暮らせば」で触れた鴻上尚史の「名セリフ!」でたまたま読んだので大まかなことはわかっていた。その時から危惧はあったのだ。だって鴻上さんがチェーホフの戯曲は「動きが少なくて、登場人物の会話がえんえんと続くだけ」と書いているんだもの。そのいっぽうで、「かもめ」の主人公トレープレフ(ロシアの文学って、名前だけで挫ける。トレープレフなんて耳で聞いただけじゃ覚えられない)の最後のセリフには言外の意味が満ち溢れているようで、それを考えるのが楽しいとも言っている。だから、きっとちゃんとセリフを聞いていれば面白い芝居だったのだ。
話はややこしいような単純なような。田舎に住んで芝居を書いているトレープレフ(藤原竜也)は女優志望のニーナ(美波)に恋をしている。でもニーナはトレープレフの母親で女優のアルカージナ(麻実れい)の愛人である有名な小説家トリゴーリン(鹿賀丈史)を好きになって、アルカージナとともにモスクワへ帰るトリゴーリンを追いかけて行く。ニーナはトリゴーリンの子を産んだけれどすぐに死んでしまった。2年後、アルカージナとトリゴーリンは田舎に戻る。ニーナも人知れず戻ってきていて、トレープレフに再会する。でも2人の思いは噛み合わなくて…。
と、ここまでは知っていた。芝居を見て「ええ~っ、こんな登場人物もいたのぉ?」となったのが、小島聖演じるマーシャという女。いつも黒い服に身を包んで、いつも不機嫌で笑顔を見せることがない。この人は、アルカージナの兄ソーリン(勝部演之)の家の執事の娘で、トレープレフを好きなのに、彼女に思いを寄せる冴えない教師(たかお鷹)と結婚し、それでますます不機嫌になっている。あんな嫌っていたのに、なぜ結婚したのだろう。しかも、子供までつくって(子供には愛情を感じていないみたい)。
機嫌の悪い人の顔見ているのってイヤなものでしょう。だから私は、この女の存在があまり面白くなくて。小島聖はイメージを壊さないようにするためか、3回のカーテンコールで一度も笑顔を見せなかった。
鹿賀丈史についてはどうしても「アレ・キュイジーヌ!!」(「料理の鉄人」)のイメージが抜けなくて。終わってからもう何年もたっているのにね。と同時に、ニーナが追いかけるほどの男にも見えなくて(ニーナは外へ出るきっかけがほしかっただけなのかもしれない)。
藤原竜也クンはとても動きの綺麗な役者さんだと思う。童顔にやや太めの声というアンバランス、そして「身毒丸」では全身で表現するエネルギーに圧倒されたが、今度も激しい感情を露わにする場面では全身を使っていた。あんなに美形なのに、あなたの書く戯曲は「動きが少なくて、読むだけ」とニーナに言われてしまう(で、前述のチェーホフ本人の戯曲も「動きが少なくて、会話がえんえんと続くだけ」に繋がる)。
美波は前半、ちょっと声がキンキンしていた。「エレンディラ」ではきれいな高い声が魅力のひとつだと思ったのだが、今回はあまり張り上げたときに気になった。でも、美波って顔がいいし、はかなげな雰囲気が割と好きだ。美波もカーテンコールで1回笑顔を見せかけただけだったな。やっぱり役のイメージを保とうとしているのかしら。
他を圧倒していたのは麻実れいだと思う。まさにアルカージナがそこにいる、という感じで、存在感バツグン。華やかで姿も美しく、それに大声を出しているようには感じないのに、ちゃんと声が透っている。さすが元宝塚と言いましょうか。
<上演時間>第1100分、休憩15分、第250

今こうして「かもめ」を振り返っていると、寝ちゃったのはもったいなかったな、と後悔している。
怒涛の6月は終わったけれど、怒涛の余波はまだ残っていて、30日、1日、2日と3連チャン。そんなスケジュールだから寝るのかも。で、昼間寝たから今起きている。いくらなんでももうそろそろ寝なくては。

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2008年6月17日 (火)

父と暮らせば

616日 「父と暮らせば」(紀伊国屋サザンシアター)
宮沢りえの映画を見損ねたので、待ちに待っていましたというこまつ座公演である。月曜日の14時開演というのに、チケットは完売と貼り紙されていた。
萬長さんはやっぱりいい。最高の<日本のおとうさん(あるいはおじさん)>役者だと私は思っている。娘役の栗田桃子さんは、その演技がとても印象的だった「紙屋町さくらホテル」以来の登場。
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人芝居である(以下、ばっちりネタバレしますし、毎度お馴染み長い長い記事になりました)。

こまつ座にしては珍しく、開演前の舞台に幕が降りている。雷鳴とともにその幕が開くと、古い簡易住宅のセットが現れ、美津江が雨の中、飛び込んでくる。家に入ったとたん、床につっぷして雷の恐怖に震えている。「おとったん、こわい!!」娘の叫び声に押入れがあき、座布団を頭にかぶった父親が上段から顔を出し、早く押入れの中に入れ、と娘を招く。この瞬間、私はこの父娘の世界にぐいっと引き込まれた。
美津江が雷鳴を怖がるのは、<ピカ>、すなわち原爆が落とされて以来のこと。ああ、そうか、そうだろうな、その恐怖は特別のものなんだろうな。「いい年をして雷を怖がって」と恥ずかしがる娘を陽気な<おとったん>が痛ましそうに、悪友の写真屋がマグネシウムが光るたびにピカを思い出して写真が撮れなくなった、ピカを浴びた者はぴかっと光るものを怖がっていいんだ、それが蛍であっても、と娘をかばう。その言葉に胸がしめつけられる。
このおとったん、この家に住んでいるはずなのに、なんか変なのよね。麦茶を出されても飲めない、まんじゅうを目の前にしても食べられない、「あら、来てたの?」なんて娘に言われたりして。それなのに、不覚にも私、ず~っと気付かなかった。いつ、「あっ」と思ったのだろう――変だ変だと不審に思いながら、かなり長い間気付かなかったのだ――、おとったんはもうこの世にいないんだって。図書館に勤める娘が、どうやら恋をしたらしい、原爆で命を失ったおとったんは娘の恋の応援団長として、この世に現れたのだ。娘が図書館によく来る青年に抱いた「ときめきからわしの胴体ができ」、娘の「ため息からわしの手足ができ」、あの人私のいる窓口にきてくれないかなという娘の「願いからわしの心臓ができ」た、って、そんなセリフを聞いてもピンとこなかった私は、なんてニブイ。
井上ひさしは、<幸せになってはいけない私>と<幸せになりたい私>に分裂した娘を12役にして対立させようとしたのだそうだ。しかし1人の女優がそれを演じ分けるのは大変だから、幸せになりたいと願う娘のかわりに父親を登場させた、娘の幸せを願う父親は美津江の心の幻なんだと言う。その手法に、私は見事にひっかっかってしまったわけだ。

娘は恋に消極的で、おとったんの応援を強く拒絶する。
「あたしは幸せになっちゃいけないの!!
おとったんがどう励まし、どう指導しても(この人、かつて未亡人にちょっかいを出したりして、けっこうお盛んだったらしい)、娘は頑な態度を崩さない。友達もみんな死んでしまい、自分1人が生き残ってしまったから。違う。
本当は…家の下敷きになって動けない父親を見捨てて逃げたことが娘に幸せを禁じていたのだ。いや、娘は父親を助けようとして、あらゆる努力を試みた。でも非力な娘1人でどうやって、父親にのしかかる梁やら柱やらをどけられるのだ。火が回ってきて娘の髪も眉もちりちりいいだした。娘は父と一緒に死ぬつもりだった。でも父親が「逃げろ」といい、娘は結局それに従ったのだ。そのいきさつが胸を抉る。
身近なところで考えれば、阪神大震災でもこういう状況はたくさんあったはずだ。1カ月前四川で、そしてつい先日東北で大きな地震があった。自分が暮らす関東にだっていつそれがきて、そういう選択をしなければならないとも限らない。相手が家族であっても、見知らぬ他人であっても、炎に包まれているのになすすべもない状況で、どういう選択をするのか。一緒に死ねばいいというものでもないだろう。生き延びられる人は生き延びるべきだと、思う。だが、助けることができなかったという十字架は一生背負って行くことになるんだ、とも思う。死ぬも地獄、生きるも地獄…。
あのとき、お互いに納得したはずだという父親に対して、娘はそれでも自分を許せないでいる。その心を溶かしたのは、「おまえはわしによって生かされている」という父親の言葉。こんなむごい別れが何万もあったことを覚えていてもらうために生かされているのだ、人間の悲しかったこと、楽しかったことを伝えることがおまえの仕事だろう、それができないなら、「わしの孫、ひ孫」にかわりにやってもらう。
やっと幸せをつかみそうな娘は、風呂に薪をくべに行った父親の背中に深々と頭を下げ「おとったん、ありがとありました」。

私は声高に反戦を叫ぶ者ではないし、あまりに反戦思想を前面に出されると、うんざりしてしまう。戦争なんて、それで儲けている人間を除けば誰だってイヤに決まっている。だけどこの作品は、父と娘の会話だけであの無惨な場面を描き、2人の会話のどこにも「戦争はいかん」とか原爆投下に対する恨み言はなく、ただ終わりのほうで父親が「こんな別れが末代まであってはいかん、むごすぎる」と言う。その一言に、胸を衝かれる。後半はずっと涙が止まらず、何度も嗚咽をこらえ、最後の場面では声をあげて泣きそうになった。栗田さんは自分の思いのたけを吐き出すとき、ちょっと絶叫気味になるので(そういう演出なのでしょう)、やや引き加減になるときもあったが。幕が降りても、みんななかなか席を立たず、私も真っ赤な目と鼻を見られるのは恥ずかしいなあなんて思って、少し席でじっとしていた。
テーマがテーマだし、さぞや重苦しい芝居かと思われるかもしれないが、全然そんなことはない。笑いどころもたくさんある。辻萬長さんの軽妙な演技は心なごむし、父親の思いがユーモラスに伝わってくる。雨が降れば家中の桶やら鍋やらで滴を受けなければならないような雨漏りでも、「雨に歌えば」みたいな感じで楽しそう。2人の会話は時に喜劇といってもいいような展開をする。それなのに、悲しいことがいっぱいつまっている。
時代も状況も全然違うとはいえ、先日のキャラメルでは死んだ母親が息子の前に、今日のこまつ座は死んだ父親が娘の前に現れる。奇しくもそんな類似性をもった芝居を見た後に、ひょっとしたらキャラメルのおかあさんも、12役の息子の心の幻かもしれない、と思った。
<上演時間>80

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2008年6月12日 (木)

神田川下りで成長:「ハックルベリーにさよならを」

611日 「水平線の歩き方/ハックルベリーにさよならを」(シアターアプル)
080612ajisai2 「ハックルベリーにさよならを」
引き続いてのこの作品は、題名からして、少年成長記だと想像できる。こちらの少年ケンジも両親は離婚。6年生のケンジはやっぱり母親と暮らしている。ただ、岡崎の父親は息子を捨てた(と岡崎が言っていた)が、ケンジは月に1回父と会っている。家庭教師のコーキチくんはカヌーが大好きで、ケンジもカヌーに興味をもつけれど、母親は危険だからとカヌーに乗ることを許してくれない。ある、父との面会日、ケンジが父と近くの池でボートに乗るのを楽しみにマンションへ行くと、カオルという女性がいた。カオルは父が再婚を考えている人だったが、ケンジはそれを受け入れられなくて…。
前日仕事をしていてほとんど寝ていなかったせいで、申し訳ないながら、この辺でダウンsleepy 気がついたら、ケンジがカヌー(ボートかな)で神田川を下る場面になっていた。ケンジは父の再婚に傷ついたのかなんかよくわからなかったが、さかんに「僕は1人になりたいんだ」と叫んでいたから、ある意味自由を求めていたのだろうか。そういえば、ハックルベリーは友人の逃亡奴隷ジムと自由を求めてミシシッピを筏で下るんだったっけ。ということは、ここにはジムはいないけれど、題名を見ずともハックのお話がモチーフになっていることは明らかだ。
ケンジにジムはいないけれど、実はケンジのボートにも同乗者がいる。最初からケンジを見守ってそばにいたその人の正体は最後にわかる。私は最初からそれが誰だか予測がついていたけど、やっぱりそうだったんだ、とニンマリした。
素晴らしい「水平線の歩き方」を見た後だからなのか、あるいは別に理由があるのか、意外とこの芝居には入っていかれなかった。川くだりの場面なんかよく出来ていて手に汗握るような場面もあったし、涙が滲むような場面もあったのに、残念ながら寝てしまい、申し訳ないが感動も思いのほか薄かった。先にこちらを見たらどうだったのかな、とは思うけれど。
ところで、この2つの作品には1人だけ同じ人が出てくる。1つは子供時代、もう1つは大人になってからの姿で。おやっと思ってパンフを見たら、やっぱりそうだった。その性格はちっとも変わっていなくて、ちょっと笑えた。それが誰かも舞台を見てのお楽しみ。

最後に付け加えておくと、今回の芝居は2本とも携帯電話が非常に効果的に使われている。万が一客席でphonetoが鳴っちゃったら効果半減。ご覧になる方は絶対に電源切ってね。
おまけ1いつものような前説がなく、それぞれの芝居の前に坂口理恵、岡田さつきによる声での<あたりまえ注意事項>が放送された。面白かったのは、シアターアプルの舞台の真上はコマの回り舞台になっているそうで、上演中「ごんごろごんごろ音が聞こえてきたら、それは中条きよし(2本目は中村美律子)さんが回っているということですから」というアナウンスに場内爆笑。
おまけ21本目と2本目の間の休憩時間に、プロデューサーの加藤さん(本人は社長だと言っていた)の中説があった。コマが今年いっぱいでなくなるのは既知のことだが、それに従ってシアターアプルも姿を消す。キャラメルもずいぶんお世話になったので寂しい。で、劇場の話になり、サンシャイン劇場が現在改装中だが、改装直前の公演がキャラメルの「きみがいた時間、ぼくのいく時間」、改装直後が同じキャラメルの「嵐になるまで待って」で、キャラメルに挟まれた改装だってことになって。サンシャインはかなり大掛かりな改装になるらしい。とくに二階の客席の狭さが改善されるのだとか。8月は公演も楽しみだが、劇場の新しい姿を見るのも楽しみ。
おまけ3西川浩幸命名の「ねみみにみず」というペットボトルを売っていた。いやに小さく見えたけれど500mL入っているのかなあ。中身は阿蘇のミネラルウォーターで300円。たかっ。加藤さんも向かいのカフェでボルヴィックを200円で売っています、飲料水のほしい方はそちらでどうぞ、と言っていた。

おまけ4貼ってあったポスターで、NHKで放送予定の「七瀬ふたたび」の脚本がキャラメルの真柴あずきだと知った。それつながりで、亀ちゃんがキャラメルに客演するなんてこと、ないよね

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one of the best 1:「水平線の歩き方」

611日 「水平線の歩き方/ハックルベリーにさよならを」(シアターアプル)
080612ajisai1 「水平線の歩き方」
キャラメルボックス恒例のハーフタイムシアター。1時間の芝居が2本立てで上演される。間に1時間の休憩が入るが、通しで見た。上演順はその日によって違う。私が見た昨日は「水平線の歩き方」が先であった。
こういう芝居は、ネタバレしてはこの後ご覧になる方にとって面白くないと思うので、キャラメルのHPに出ている程度のストーリーだけご紹介しておく。
岡崎は35歳のラガーマン。その不屈の闘志は伝説的に有名だが、日本代表にも選ばれたことはない。ある日、ぐでんぐでんに酔っ払って部屋に帰ると、岡崎が6年生の時に死んだ母がいた。21歳で岡崎を生んだ母は死んだ当時のままの若さ(ってことは今の岡崎より年下ね)。母は幽霊なのだろうか?
岡崎は母に問われるまま現在の生活を語り、また2人は一緒に生活していた頃の(両親は離婚して岡崎は母1人に育てられた)思い出話をして、それによって岡崎のこれまでの人生が自然に私の心に浮かび上がる。
このあたりの芝居の作り方がとてもうまい。舞台は母と
2人の部屋だけなのに、岡崎がこれまでにかかわってきた人たちが登場して過去のストーリーが同じ舞台で進められてもまったく違和感なく岡崎の過去と現在を客も行ったり来たりできる(こういう手法って、「憑神」でも見たな)。熱くなって、時に自分を見失う岡崎を冷静に現実に引き戻す母。
この2人の会話がいいのよ~。看護婦をしていた母は多忙で息子と一緒にいてやれる時間が少なかったにもかかわらず、限りない愛情を注いでいたんだと思う。だから息子は1人ぼっちで過ごす時間を寂しいと思いながらも母を恨みに思うことはなかった。母の死後、母の弟夫婦が岡崎を引き取ってくれて、実の子供のように愛して育ててくれたのも、私の胸を熱くする。でも、岡崎にとって母の死はトラウマになってしまったのね。<失う>ことを極端に恐れ、自分の周りに予防線を巡らせて暮らしているの。
やがて、死んだ岡崎の母がなぜ岡崎の部屋を訪ねたかが明らかになる。もうここまでで涙涙の観客は、耐え切れず、あちこちで嗚咽が漏れる。一見能天気な母親だけど、その愛情の深さは海よりも深い。
母親役の岡田さつきが以前に比べて綺麗になっている、と思った。このおかあさん、舞台に出ている間じゅうほとんど何か食べている。スナック菓子であったり、魚肉ソーセージであったり。ユウレイなのに~? いや、ユウレイじゃないのかな~。その答えは、舞台を観たらわかる。
happy01もあちこちにちりばめられ、それでいて涙が溢れcrying、私がキャラメルを見るきっかけとなった「嵐になるまで待って」(8月公演で、初めて本物が見られる)、そして初めて見たキャラメルの本物舞台「クロノス」とともに「水平線の歩き方」は、私のキャラメルone of the best 1 winkと言える。しかしキャラメルってこういう死んだ家族との再会(映画「ゴースト」みたいなシチュエーションも含めて)って好きだよねぇ。
ちょっと一言:岡崎の母の弟、つまり叔父役が若すぎる。一生懸命年齢相応に作っている努力は見えるが、どう見たって岡崎より若い。歌舞伎でもままそういうことがあるが、これは役者さんに気の毒。

以下、続く。

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2008年6月10日 (火)

信繁七変化を楽しむ

610日 「嘉島まつり/狐狸狐狸ばなし」(三越劇場)
武田信繁がとってもよかったから、思わず買ってしまったチケット。けっこう楽しみにしていました。
「嘉島まつり」
開演時間を知らせるブザーが35分前に鳴ったかと思うと、スピーカーからいかにもな音楽が流れてきた。いや、私の席はスピーカーのすぐそばだったから、「流れてきた」という生易しいものではない。かなりの大音響。でもその割りには鬱陶しい感じはしない。
やがて、通路から祭りのたこ焼き売り(曾我廼家寛太郎)と綿菓子売り(菊池敏昭)が登場し、なんだか忘れたけれど少し喋って、それからたこ焼き売りが観劇マナーの注意をする。携帯の電源と撮影録音等禁止のことです。
で、幕が開いたらいきなり美空ひばりの「お祭りマンボ」が流れてきて(大音響でね)、ビックリした。私は何を想像していたかというと、いわゆる日本舞踊的な、そんな踊りかと思っていたのだ。そうしたら歌謡曲舞踊だったのね。気分はもう浅草大勝館か木馬館(って行ったことないんだけど)。
嘉島クンは4曲目(第四景)までは女方で登場し、曲と曲の間がほとんどないから、全部早替り。そして第四景の「涙そうそう」では幼い少女から成長した大人の女性に変身したから、ここも早替り。第五景は嘉島クンが登場せず、甲斐京子が歌い踊る。甲斐さんは元SKDの男役だとかで、立ち姿も動きもかっこよく、女方には女方の作り方があるように男役には男役の作り方があるのだろうということを思い起こさせた。で、第六景からの嘉島クンは立役。第六景は音楽はなく、激しい殺陣がとてもステキだった。
信繁しか知らない私としては、嘉島クンの女姿を見るとなんか変な気持ちになった。ぽっちゃりして童顔だからとても可愛いし、コケティッシュなところもある。踊りはキレがあってぴちぴちした感じ。でも「涙そうそう」の<喜一の塗り絵>みたいな女の子姿で出していた脚はヒラメ筋が発達していて、男性の脚だった。第七景で見せた股旅姿がよく似合っていて、いい感じだった。第十景の「八木節」は嘉島クン自身による替え歌になっていた(と思う)。
全十一景にフィナーレ(フィナーレでの嘉島クンの扇さばきが実に見事)、変化があって、気張らずに楽しめた。
「狐狸狐狸ばなし」
おきわ(山本陽子)、伊之助(松村雄基)が周囲を巻き込んでの化かし合い、物語を言ってしまっては今後この芝居を見る人に悪いから(今回だけでなく、歌舞伎でもかかる演目だから)多くは語らないが、よくできた芝居だった。一番驚いたのは松村雄基。あのオトコっぽい松村雄基が元女方の役者で、愛するおきわのために家事いっさいを引き受けて、という役。仕草もなよなよしているし、言葉も女っぽい。あの顔でそういう役だから、ちょっと怖くはあるんだけれども、そのギャップがおかしくて、だけど役としての違和感は全然なくて、うまいし、なかなかオツな配役だと思った。山本陽子は見た目はちょっとどぎつさがあるものの(どぎつさは、役づくりのためかも)、若くて綺麗だった。映像系出身の女優さんは舞台での発声が気になる人が多いが、山本陽子はやや低めの声が自然に出ていてよかった。
寺男役の中山仁に昔の面影がなく、ううむ…。嘉島クンは「牛娘」と渾名されるスッゴイ醜女の娘役で、特別出演とか友情出演みたいな感じで出てきた。元の顔がわからないくらいの作りで、演技も多分本人かなり楽しんでやってるなと思われた。
この演目は平成15年に伊之助=勘九郎、おきわ=福助、おきわの間男・重善=新之介(今回は寺杣昌紀)で歌舞伎座公演があったそうだが、これ見たかったわ~。いずれまた、歌舞伎座で見られることを期待している。
<上演時間>嘉島まつり40分、休憩25分、狐狸狐狸ばなし110分

おまけ:ロビーのお花、「風林火山」組から嘉島さんへのお花はやっぱりすぐに目に付く。亀ちゃんは何日か前に、見に行ったらしい。
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