愚かさという悲劇:リア王
1月31日 「リア王」(彩の国さいたま芸術劇場昼の部)
<リア王の思い出>
リア王にはちょっと思い入れがある。小学校の時、校内放送でリア王の放送劇をやったことがあるのだ。脚本選びやらキャスティングに参加し、さらに出演もしたような記憶がないでもないから、当時私は放送委員か何かをやっていたのかもしれない。その後、中学生向けの全集本で読み、さらに1986年には映画も見た(全然覚えていない)。
そんな思い入れにもかかわらず、リア王の物語に関する私の記憶はかなりいい加減なものであったことが、今回わかった。それは何かといえば、コーディリアが父親をどれだけ愛しているかリア王自身に問われ、心にもない美辞麗句で愛情を表現した姉2人とは違い、正直な心情を吐露する肝心要の場面。私はてっきり「お父様への愛情は、塩のかかっていないお肉のようなものですわ」とかいうような答えをしたと思っていた。そうしたら全然違うではないか。「子の義務として愛する」というのが答えであった。肉と塩の譬えがどこかで出てくるんじゃないかと待ち構えていたが、状況を見るとどう考えたってそんなセリフ出てくるわけがない。記憶違いだったかと、かなり消沈した(何十年もそう信じていたんだもの。塩のない肉とはなんだ、と怒って娘を追い出した父親は後日、実際に塩のかかっていない肉の味気なさを知り、娘の愛情を理解したという話は、いったいどこからもってきたのだろう…)。
<愚かな人間:善人組と悪人組>
さて、この「リヤ王」は、善良な人間たちが悪人どもの奸計によって破滅するという、救いようのない話である。悪人組は長女ゴネリル、次女リーガン、その夫コーンウォール公、そしてリヤ王の忠実な側近グロスター伯の庶子エドマンドであるが、こいつらのワルいこと。とくにリーガン夫婦に至っては残酷きわまりない。グロスター伯の目玉をくりぬいいてしまうという恐ろしさ。
その悪人組に翻弄される善人たち、リヤ王にしてもグロスター伯にしても、その嫡子エドガー(エドマンドの腹違いの兄)にしても、善人には違いないし実にみじめな境遇に墜ちるが、はっきり言っておバカである。リヤ王なんかゴネリルとリーガンの歯の浮くようなお世辞(領土を狙っての美辞麗句)を真に受けてしまうんだから。グロスターは妻以外の女といい思いをしてできてしまった子(と、友人のケント伯に自ら、そう言っている)に裏切られる。当時の道徳観念は知らないが、因果応報だおいう諦念が感じられた。エドガーはおバカといっては気の毒かもしれないけれど、やはりエドマンドの嘘に軽く乗せられる。コーディリアだけがとばっちりを食った感じである。
シェークスピアはなぜ、いとも簡単に悪意にだまされ、悲劇の結末を迎える人間を描きたがるのだろう。悪いヤツはなぜ、自分の主君、親兄弟を陥れようとするのだろう。ゴネリルとリーガンはなぜあんなにヒステリックに父親をいじめるのだろう。あの性格は遺伝子としてリヤ王ももっているものなのだろうか、それともリヤ王の奥方がもっていたものなのだろうか。
奸計を巡らせた当人にバチがあたるだけなら自業自得、見る側はそれを当然の報いとして受け止め、スッキリした気分になるだろう。しかし、シェークスピアの場合、奸計に陥った善人も破滅してしまうのである。マクベスしかり、オセローしかり、そしてこのリヤ王。愚かさの報いなのか。そこが、シェークスピア悲劇の悲劇たる所以なのかもしれない。
勝ち負けゲームとして考えたら、ゴネリルの夫、オールバニー公が最終勝者といったところだろうか。気が弱く魅力のない夫と妻から蔑まれるこの人は、物語の中でもほとんど目立たない存在なのだが、悪事が明るみに出る頃から俄然重要人物になってくるのが面白い(オールバニー公と、出奔する前のエドガーがメガネをかけていたのは何か意味があるのだろうか?)。
<出演者>
今回のキャストの目玉は、内山理名であろう。前回の「オセロー」の蒼井優に続く映画・テレビ系美少女の起用にはどういう意図があるのだろうか。正直なところ、内山理名には荷が重かったような気がする。セリフはほとんど聞き取れないし(声は届くのだが、何を喋っているかわからない)、演技もイマイチだ。何しろ、平幹二郎(リヤ王)、吉田鋼太郎(グロスター伯)、瑳川哲朗(ケント伯)、銀粉蝶(ゴネリル)といった錚々たる役者に囲まれているのだから、気の毒といえば気の毒には違いない。蒼井優には感じられた初々しさも、あまり見えなかったけれど、昂然とした美しさはよく表現されており、コーディリアって、こんな意志の強い、活発な女性だったんだっけと、初めて認識させられた。正しいと思った意見は曲げず、「なかなか言うじゃん」という感じ。また、戦陣で父を救おうと待機する馬上の姿はまるでジャンヌ・ダルク。ここはちょっと<引いて>しまった(別に内山理名のせいではない)。
意外だったのは、とよた真帆(リーガン)。残忍さをはらんだ姿も美しく、よく透る自然な発声で、セリフもはっきりしている。演技も、こんなにうまかったっけ、とびっくりした。
また池内博之(エドマンド)がなかなかの出来である。元々、あの眼光の鋭さはテレビの枠からはみ出すものであると思っていたが、立派なワルだ。でもその心情がきちんと伝わってきて、なんか<わかる>気がするのである。銀粉蝶を相手のラブシーンにはちょっとオドロキ。背が高くて、顔がすっごく小さくてカッコよかった。
ご贔屓、高橋洋(エドガー)は難しい役どころだったと思う。エドガーという人物は、同じ善人組でも、1人何となく摑みどころのない感じが私にはする。もしかしたらイヤゴーより演じにくかったのではないだろうか。しかし、狂気を装いながら盲目の父の手を引いて守る高橋サンのエドガーには、ずいぶん泣きました。
平幹二郎は、出だし、声がちょっと掠れていて苦しそうで、あれ風邪でもひいたかなと心配したが、どうやら大丈夫そうでほっとした。だんだんと理性を失い荒野をさまよい歩く老王の姿は、乞食のようでありながら重厚さを失わず、感動的である。
銀粉蝶の妖艶な悪女ぶりが楽しかった。常に体を少し後ろに反らせ気味に、顔をつんとあげ、誇り高さを表現している。もう、その立ち方だけで、このゴネリルという女の性格の一部がわかるというものだ。
そういえば、道化として山崎一が出ていたが、途中からいなくなっちゃったなあ。
<舞台>
歌舞伎テイストが今回もみられる。背景の大きな松は、松羽目物を思わせるし、左右に置かれた紅白の梅(かな?)も、オヤと目を引いた。また、後半、音楽に鼓と笛が使われ、あるいは全体として能を意識したのかもしれないが、私としては歌舞伎と考えたい。
物語が展開されるブリテンは、寒い。貴族たちがみんな、厚い毛皮のコートを着けていることから、それが知れる。その服装を見ただけで、冷たい風が吹き荒れるヒース(荒野)が目に浮かぶ(「嵐が丘」かっ)。しかし役者さんたちは汗だくだ。ごつごつとところどころ盛り上がる地面には実際に土が敷かれ、荒涼としたイメージがよりふくらむ。舞台の奥と手前、二重に設えられた大扉の開閉で場面転換を行う。このあたりはさすがニナガワといった巧さである。
カーテンコールは4回ほどだっただろうか。スタンディングオベーションもちらほら見られた。
第20弾となる次の彩の国シェイクスピア・シリーズは何がかかるだろうか。オセロー、リア王と続いたから、いっそ一気に四大悲劇をかけるか。それでは息が詰まるから喜劇だろうか、あるいは歴史劇? いずれにしても次が待たれることである。
怒涛の1月は、これでおしまい。
<上演時間>第1部90分、休憩20分、第2部110分
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コメント
そうそう、思い出しました。馬に乗ったコーディリア。なんかあっけにとられたというか、気恥ずかしくなる感じも・・・。
それと、やっぱり道化って難しい気がしました。その存在自体が、私たちの感覚の外にあるからかしら。
にしても、長女次女は、最強!と言いたいくらいの存在感で、日がたつにつれて印象が強くなっていきます。
投稿: きびだんご | 2008年2月 4日 (月) 22時49分
きびだんご様
あの馬も歌舞伎から取り入れたものなんでしょうかしらね? それはそれとして、あの場面、ちょっと浮いていましたよね。
道化はシェイクスピアにはよく出てくるようですが(「十二夜」の捨助も道化でしたね)、やはり日本人には馴染まないんだろうと、私も思います。
本来ならコーディリアが印象に残るべきなのに、ゴネリルとリーガンは強烈でしたね。銀粉蝶さんの個性は言うまでもなく、とよた真帆さんの好演によって2人が同じくらい脳に刻まれました。しかも、悪人組なのに、そうだと切り捨てられない何かを持っていた、という気がします。
投稿: SwingingFujisan | 2008年2月 4日 (月) 23時03分