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2007年10月12日 (金)

オセロー

071011othello 1011日 「オセロー」(さいたま芸術劇場13時の部)

辺りが闇に包まれると、誰かが走る足音と振動を感じ、やがて明かりが入ると、今まで何もなかった目の前に何本かの柱が立てられており、その1本の陰に男が1人がいるのに気付く。

私の今日の座席は、最前列上手側(そういうスゴい席が当たることもあるのに、この前の「エレンディラ」や次の「リア王」などは相当後ろの席)。B列だから2列目だと思っていた私は、自分の席に人が座っているのを見て少し動揺したけれど、よく見ればA列をなくして舞台を前にせり出してあったのである。それだけに、舞台先端まで役者さんがやってくると、ド迫力。唾が飛んできそうな距離である(今日は、唾を飛ばす場面はほとんどなかった)。足音にはボディソニック効果がある。

はじめ私のところからは見えなかったが、柱の陰にいる男の向こうにもう1人男がいた。イアゴーである。深夜のヴェニス。2人は柱をはさんで背中合わせになにごとかを話しているのだが、ひそひそ声の上にこちらに背中を向けており、その内容はほとんど聞こえない。イアゴーの相手はこちらを向いているから、声はまあまあ聞こえた。

舞台は歌舞伎座などに比べて低いため、最前列でも足元まできっちり見えたが、中央で人物が2人並んだりすると、向こう側の人物が見えなかったり、向こう側を向いてセリフが言われるとよく聞き取れなかったり、多少見づらさがあったのが残念(贅沢な…)。

オセローが吉田鋼太郎、デズデモーナが蒼井優という配役に違和感を覚えていたが、開演前に少し目を通したプログラムに、翻訳者の松岡和子さんが中年のオセローと少女のデズデモーナという組み合わせが理想である、娘のような妻ならさまざまな場面の違和感がないというようなことを書いておられて、へええと思った。

さて、そういう目で見ると、蒼井優はまさに清純な少女であり、笑顔には幼ささえ感じられ、吉田鋼太郎とじゃ親娘になってしまうのではないかと危惧したが、意外にもそういう感じはしなかった。年齢差は親娘ほどもあろうが、ちゃんと夫婦であった。ただ、イアゴーの策略が功を奏するあたりになると、むか~し見た映画のオセローでは、デズデモーナは清純ながらも色気のある大人の女優であった(マギー・スミス)からすんなりと受け入れられたオセローの嫉妬も、この芝居ではあんな子供みたいな妻が他の男と浮気をしたと信じたりするものかしら、オセローがそこまで狂うものかしらと納得がいかない気分がした。自分が黒人だというコンプレックスが、イアゴーの言葉を簡単に信じてしまう背景にあるのはわかるのだけど……。

ところが不思議なもので、デズデモーナを寝室で殺す場面に至って、初めてオセローの嫉妬が理解でき、それだけに身に覚えのないことで責められ、その嫉妬が理解できないまま「殺さないで。せめて1日待って」と懇願するデズデモーナが本当に可哀想で、涙が出てきた。

吉田鋼太郎は老け役というイメージだったのでもっとおじいさんかと思っていたら、案外若々しく、堂々として精力的で高潔な将軍オセローにぴったり。立派で大きな人物だけど、非常に人間臭さも見せる。イアゴーに操られていとも簡単に嫉妬に狂っていくかもしれないと思わせる一面は確かにある。大熱演で、激情の表し方など、ホント迫力あって怖かった。ところで、オセローって癲癇の持病があるの、初めて知った。

蒼井優は、途中までは敢闘賞ものだと思って見ていた(オセローとの結婚に猛反対する父親に向かってオセローへの揺るぎない愛を語る姿など、真っ直ぐな感じが美しい)に過ぎないが、終わりのほう、侍女のエミリアと2人になって「柳の唄」を歌うあたりから、俄然よくなってきて、そうなるとそれまでの心情もすべて伝わってきて、それが寝室での場面で私がオセローの嫉妬を理解するきっかけにもなったのだと思う。デズデモーナのイメージとして、悲劇性ばかりが強調されて私の中にあったのだが、蒼井優の笑顔は、本来デズデモーナは明るく好奇心(良い意味での)に満ちた女性なのだということをわからせてくれた。あの明るい少女がこのような結末を迎えるから、余計悲劇性が強まるのかもしれない。ミーハー的には、名前だけはあちこちでよく見ていた蒼井優を初めて、しかも間近で見られてラッキーだったかも。

エミリアの馬渕英俚可がよかった。エミリアという人物は、デズデモーナのことを本当に敬愛していて、心から仕えているのだけれど、夫イアゴーの命令に従って、デズデモーナの大事なハンカチを拾いそれを夫に渡したことにより、悲劇の具体的な種を作ってしまう。だから私にはこれまで一番理解しがたい人物だった。彼女もまたイアゴーの策略にどこかで加担しているのかと誤解さえしていた(それは、私がこの作品をきちんと把握していなかったせいもある)。今回、エミリアの心情が馬渕英俚可を通してよく伝わってきた。エミリアがイアゴーに殺されるときも泣けた。それに、デズデモーナは手厚く葬られるだろうに、殺されたエミリアには誰も駆け寄ってあげない。可哀想すぎる。

イアゴーは高橋洋。イアゴーがただの悪いヤツならその仕掛けた罠もわかりやすいが、それでは物語が薄っぺらになってしまう。高橋洋のイアゴーは、内面に憎しみ(だけではないかもしれない)を溜めに溜め込んでいる。昏い炎を燃え上がらせていく嫉妬と、人を冷たく落としこんでいく憎しみは、一見反対の様相をもちながら、裏腹の感情なのかもしれない。イアゴーはその両方をもっていたのかもしれない。しかしそれに加えて、高橋洋のイアゴーには繊細さと空虚さ、そして深い哀しみのようなものが窺えた。実に複雑で魅力的なイアゴーだった(魅力的という中には憎らしさも含まれる)。

人間の愚かしさを片や喜劇という形で表現し(「ヴェニスの商人」など)、もう一方では悲劇という形としても表しているシェークスピアは、やっぱり<凄い人>である。

しかし、それにしても「オセロー」というのは救いようのない話ではある。夫に殺される妻2人、誤りを知り自ら命を絶つオセロー、そして罪人イアゴーには出来るだけ長く苦痛を味わわせる恐らく残酷な刑が処せられるであろう。

「ヴェニスの商人」でも感じたが、ヴェネツィアの貴族たちには何か納得しがたい気持ちがある。シャイロックにしてもイアゴーにしても、残酷な刑を下せばいいのだろうか。

おまけ1オセローに首を絞められ死んだと思っていたデズデモーナが突然息を吹き返し、二言三言喋る。ビックリした。ひょっとしてこのまま生き返っちゃうんじゃないかと心配になってしまった(生き返ったら「オセロー」じゃなくなっちゃう)。喋ったあと、今度はちゃんと息を引き取った。

おまけ29月に見たシラノ、ヴェニスの商人、ドラクル、ロマンス、みんな前半が冗長だったが、オセローははじめの23分、聞き取りにくいひそひそ声の会話を除いて、ずっとテンポよかった。さすが蜷川なのか、元々そういうつくりなのか。

おまけ3役者さんはタフである。この「オセロー」では、金属製の階段があちこちに置かれ、役者さんはそれを昇ったり降りたり。長いものは20段くらいあったから、駆け上がったりするとけっこう大変だと思う。

追記1ヴェニスの将軍オセローは、キプロスでトルコ軍と闘って全滅させ、キプロス総督になっているが(悲劇はキプロスで起こる)、実際はヴェニスの完敗だったということだ。

追記2ムーア人とは、北西アフリカのムスリムの総称だということだ。オセローはモーリタニアの出身だ。ムスリムというとイスラム教徒だが、オセローはたしかキリスト教徒だったはず。改宗したのだろうが、それでもムーア人なのか。よくわからない。

<上演時間>1110分、休憩15分、第2110分。歌舞伎並みの長さである。もう一度見たいけれど、時間的にもきついし、今日も補助席が出ていたくらいだから、チケット的にもむずかしいかも。

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